「いや、いや、私、全然かわいくないから!」と謙遜する人を白けた目で見てしまう……そんな人、結構多いのではないでしょうか。
自信家は嫌われやすい社会なので、へりくだった態度を取ろうとする人が多いのは当然ですよね。
しかしそんな謙虚さって、間違っていると思いませんか?
本当の謙虚とは、自分を成長させるすばらしい態度なのです。
他人と自分を比較しない、本当の謙虚さについて説明します。
目次
嫌われないようにするウソの謙虚さ
「謙虚」の意味
謙虚という言葉はかなり曖昧に扱われています。たとえばネット辞書で見てみると
控えめで、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。また、そのさま。(デジタル大辞泉)
ひかえめでつつましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で人に接するさま。 (大辞林 第三版)
謙遜で、心にわだかまりのないこと。ひかえめで、つつましやかなこと。へりくだって、つつましやかにすること。また、そのさま。(精選版 日本国語大辞典)
確認できる要素としては
- 控えめ・つつましい(遠慮深く控えめ)
- へりくだっている(相手を立場が上のものとして、でしゃばらない)
- 相手の意見を素直に受け入れる
- 能力・地位におごらない(尊大にならない)
- 素直な態度
- 心にわだかまりがない
つまり謙虚という言葉一つで表されるイメージは非常に多い。そのため人によっては謙虚の意味を勘違いしている傾向があります。
- 自分を能力のない人間だとし、へりくだる態度
というイメージを持っている人は多い。辞書にある謙虚の説明と比較すると少し違和感がありますよね。
しかし海外の辞書によると、あながち間違っていません。
Oxford English Dictionary(1998)では、謙虚はつつましやかであること、もしくは自分の意見を持たないこと。服従的で遜って卑下的であること。誇りや横柄さの逆。
参考文献:謙虚に関するポジティブ心理学的研究の概観
服従的・卑下的とはなんともイメージの悪い言葉ですが、実際にこのようなイメージを持って対人関係を構築している人をよく見かけます。
自己弁護の謙虚
「私なんてすごいブサイクだし!みんなのほうがかわいいじゃん」
「えっ、そんな、自分なんてまったく仕事ができませんよ。」
謙虚さが嫌いな人は、おそらくへりくだった態度が気に食わない。そんな謙遜した発言にモヤッとしているのではないでしょうか。
また普段から目立とうとせず、自分の意見を言わないような人も嫌でしょう。彼らは会議の議論も乗ってきません。
これらに共通するのはグループで嫌われないような態度を取り、消極的に承認欲求を満たしていく認知的な戦略です。
つまり仲間はずれになることを恐れているので、目立った行動をしたくない。
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からかいや、お世辞を警戒する
誰でも馬鹿にされるのは嫌なものです。褒められても本心から言われているのか……疑心暗鬼になってしまう。
お世辞という文化は厄介ですね。その場をやり過ごすために心ないことを言うのがお世辞ですが、それに本気で反応したと思われるのは恥ずかしいでしょう。
もし褒められても、からかわれているだけだったら、悔しくて相手を恨む気持ちになる。
このように本音で対話ができないと、一つ一つの言葉を懐疑的に受け取り、相手を信用できない。
不誠実な卑下
相手が言ってくれた言葉をそのままの意味で受け取らないのは「あなたはウソを言っていますよね」と責めているのと同じです。
たとえば「Aちゃん、しばらくぶりだけれど、かわいくなったね!」と言われたことに対し
いや、いや、全然そんなことないですよ、からかわないでください!
と言い返したとする。それは
「あなたの言っていることはおかしい。本当にかわいいと思っているはずがない。もしそうだとしたら感性がおかしい。どうせ、からかっているんでしょ?性格が悪いな」
と言っているようなものです。まあ本気でそう思ったのなら良いでしょう。
しかし素直に喜べずにへりくだったなら、意図せず相手へ悪い印象を与えている。否定して嫌な気分にさせているのですから。
また集団内で主張をせず、ほかのメンバーに決めごとを委ねているのは主体性に欠けます。
自分の意見を出して決めごとをより良くする態度が集団の利益になる。それを放棄している人からは貢献しようとする気持ちが感じられません。
人の役に立つことを拒否していると、貢献による幸福感を得られず、短絡的な快楽に流されやすくなる。
しかし自信家と思われたくない人は多い。仲間はずれになりたくないのですから。
「わたしってかわいいよね。みんなの人気者だし、運動神経も抜群だしね。」
「俺はめちゃくちゃ仕事ができる。イケメンで頭が良くて最高だ!」
確かにこんな主張を全面に出す人は、煙たがられる傾向があります。なので謙虚な態度を持っているほうが得でしょう。(集団の気風によりますが)
自分と相手に誠実な、正しい謙虚とはどうすればよいのでしょうか?
ポイントは能力の査定を
他人との比較から、自分だけの基準に変えることです。
自分に焦点を当てれば、謙虚でも嫌われない
すべての人が大事にしたい謙虚心
不適切な謙虚の解釈は
- 不誠実さ
- 自己卑下(自分をおとしめること)
の2つに集約されます。これらは社会生活に適応できない考え方です。止めたほうがよい。
心理学の大家:デーヴィット・マイヤーズは、謙虚についてこのような解説をしています。
本当の謙虚は単なる自己卑下ではない。ハンサムな人が私は醜いと言ったり、知的な人が私は馬鹿だと言うこととは異なる。
参考文献:謙虚に関するポジティブ心理学的研究の概観
何が本当の謙虚なのでしょうか?
デーヴィット・マイヤーズは以上の続きに本当の謙虚とは自分を忘れること
と言っています。
なかなか高尚な言い回しですよね。その域に達するのにはかなりの精神的な成熟が必要でしょう。
謙虚の意味を行動で表現するならば、
- 自分の能力におごらず、
- 成長を続ける態度を持ち、
- 周りの人の優劣を判断せず、
- 学ぶ気概を持つこと
と言えるのではないでしょうか。
「まだまだですから」を正しく使う
「自分はまだまだですから」というのは謙遜の名フレーズですよね。誰もが一度は言ったことがあるかもしれません。
これはへりくだっている印象の文です。しかし伝えたいメッセージが適切であれば、むしろ立派に聞こえます。
適切なメッセージとは「何に対してまだまだと言っているか」という観点で判断できる。
自分はまだまだですから。皆さんのほうが立派です。
このように「まだまだ」の基準を他人にすると、へりくだった印象になる。
「皆さんの能力が高かろうが低かろうが、私はもっともっと、ちっぽけな人間なんです」と言っているわけです。
これでは自分にウソを付き、周りに嫌われないようにおべっかを使っているだけ。そのせいで印象が悪い。
そこで以下のようなメッセージに変えてみます。
自分はまだまだですから。学ぶことは永遠に尽きません。
こう言うと自分の成長を諦めない態度が伝わります。傲慢(ごうまん)さを感じず、他人の実力を気にしている様子もありません。
どこまで成長しても、目標を見つけられる限りは謙虚でいられます。
返答で感謝を伝える
会話は相手あってのことです。心地よいことを伝えたメッセージは、自分の中に吸収しきるよりも、いくらかは相手に反射したほうがスムーズになる。
たとえばBくんに「Aちゃん、しばらくぶりだけれど、かわいくなったね!」と言われたのなら、
ありがとうBくん。そう言ってくれるんだね、とてもうれしいよ。
と返せばよい。つまり相手の発言を喜ぶ。ポイントは自分の能力ではなく、相手自身を肯定することです。
かわいいと言われて優越に浸る姿を見せたくない人は多い。ほとんどの人は容姿について一度はコンプレックスを持つ。自信過剰だと思われたくないでしょう。
自分に向けられている褒めを受け止め、喜びを相手に返す。こうすれば自然で微笑ましい会話になる。
もし相手が「ほんとうだよ。すごくかわいくなった。」とさらにかぶせてくるなら、
本当にうれしいよ。明日からもがんばろうって気合が入った。
と相手の言葉が自分にとって役に立っていることを伝え返せば、Bくんは人の役に立てたと思えてうれしくなる。
万が一Bくんがお世辞やからかいで言っていたとしても、優越に浸る尊大さを見せずに済みます。
からかってきた人はサラリとかわされた気になる。それだと悪い印象は持たない。
もし相手が自分に関わってこなくなるのなら、元々性格が合わなかったとあきらめればよい。
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人から学びを得る
本気で知識や技術を磨いていくと、周りの人より自分のほうが優れていくかもしれません。
それでも人の意見や知識などを聞く必要がないと思うことは尊大です。周りの人は傲慢さを敏感に察知し非難してくる。
また人と比較して自分が優れていると思い、技術を極めた気になってしまうと、さらなる向上はありえない。
人の経験がまるで同じということはありません。いかに未熟な人でも自分なりの経験をしている。
人はそれぞれが概念に対して違う見方をする。自分が知っていることを、他の人は違うように見ているかもしれない。
この世には真理がある概念と、ない概念があります。真理がある概念とは状態を寸分たがわぬ計測ができるようになってはじめて実現する。
知識や技術などの無形な概念の多くは、計測ができない心の中にあるイメージに過ぎません。
自分の知識におごることは、自分の限界を決めているだけです。
(少し小難しくなりましたが)どんな相手の話でも、学ぶ気があれば学びは得られる。
謙虚とは学びに向かう力
自分の根底に立つ
さらに抽象的な話ですが、自分は小さい存在だと思わないと大きな事は成し遂げられないという見方ができます。
中世のキリスト教神学者:マイスター・エックハルトの謙虚さの考察によると
高さの最高の高みは、謙虚さの深い根底においてある。根底が深ければ深いほど、低ければ低いほど、それだけ、高められることとその高さは高く大きいのである。
参考文献:マイスター・エックハルトにおける「謙虚さ」理解について
とあります。僕は門外漢で詳しく理解できていませんが、人には段階によって大きさが変わる学びの器のような物がある気がしました。
つまり初学者はおちょこのような小さな器しか持てない。しかしおちょこが全てだと思うと、すべてを知った気になる。
もちろん知はまだまだ広い。もっと謙虚さを持って学びの器を広げていかなければならない。(エックハルトはもっと高尚なことを言っていますが)
ある時に自分の器の大きさに満足してしまう。そうなったら人は尊大になり、他人に学ぶ気持ちはなくなる。
自分を根底にとどめて置けるような態度を持てば、いつまでたっても学びに向かう力を持ち続けられます。
そして根底に居続けられてはじめて、最高の高みを目指せるのでしょう。
競争も自分だけの目標に変えられる
現代では多くの物事が争いの様相を強いられている。
受験・スポーツ・売上・市場シェア・子どもの進路・寄付額……すべて見ようによっては競争です。
しかし相手に勝つという努力は合理的ではない。人によって実力は違い、運によっても結果は変わる。
状況は固定されていない。つまり相手次第で自分の有り様が変わってきます。
相手次第なら邪魔をしてもよいし、相手の調子が悪ければ喜んでもよい。それでは純粋な努力などできないのです。
つまり競争に心を奪われては、謙虚さなどありえない。
正しい目標設定をすれば、勝ち負けがある相手次第の「相対目標」でも、自分だけの「絶対目標」に変えられる。
たとえば学年20番以内に入る必要があるのなら、20番を目標にするのではなく、どれくらいの成果を出せば20番に入れるのか仮説を立てる。
その仮説が実現するように勉強の計画を立てて取り組むのです。そうすれば
学年20番
という相対評価が、
国語80点・数学90点・社会75点・理科85点・英語95点
という絶対評価に変えられます。
「その点数を取っても20番に入れなかったら意味がないではないか!」という気持ちはよく分かります。
しかし精一杯努力をして得られなかった成果はあきらめるしかない。しかし適切な努力は必ず力になる。
大事なのは正しい仮説の設定です。予測をする力も汎用的な能力の一つ。鍛えていけば多くのことに役立てられます。
何度も仮説を立て、時には失敗を繰り返し、成長する自分を温かい心の目で見届けましょう。
人生目標の基準を勝ち負けにするな。小学校の運動会の目的は?
表面上、運動会は「友情を育むため」「がんばれる人になるため」とありきたりな目標を立てる。 しかし、参加の意欲が弱い子どもたちに、勝て、負けるな!とけしかけて、勝利に執着させているじゃないか。 安易に勝 ...
学ぶこととは
謙虚さは自分を根底に下げて成長に向かう力となる。
成長のためには学びを繰り返す必要がありますよね。
京都造形芸術大学教授の早川克美さんのコラムにて、すばらしい学びについての一節を見つけたので紹介します。
学ぶことは、「明日、その生命が終わろうとしても、わたしは今日、本を読む」の心境なのだ。
自負と謙虚 | アネモメトリ -風の手帖- | アートとともに ひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる
自らは性悪なものであり、謙虚さを持って無に近付こうとする態度が学び続ける姿勢です。
学びとは得られる成果に心を奪われることがなく、一貫し自己を高めることなのかもしれない。
結局のところ自己を高めれば、成果は向こうからやってくるのでしょう。
現代の人々が謙虚さを持てれば、社会はより健全に発展していきます。
おさらい
日本人は謙虚だというセルフイメージを我々は持っていますが、それは謙虚ではなく卑屈なだけなのかもしれません。
本来の謙虚さというのはなかなか難しい心理状態で、それを得るためには自分を監視する「内なる眼」を心に付ける。
しかし対外的な謙虚さに慣れている日本人は、自分に対しても謙虚であることはそう難しくない。
まず私たちがするべきことは、
周りと自分を見比べず、自分の目標に向かって努力をすることです。
謙虚さというのは、学び続ける態度を適切に表した、誰もが大事にしたい徳性です。