「日本人が優勝したらうれしい。」
そうは思っているのだが、〇〇JAPANに代表されるスポーツ観戦のあり方にモヤッとした違和感を覚える。
日本代表が負けただけでなぜ怒る?
スポーツは「日本人の誇り」を証明しない。
スポーツは楽しむものだ。
目次
代理戦争のつもりでスポーツ観戦したらイライラする
負けたら怒る人がいるからストレスに
なぜ多くの日本人は日本代表を応援するのか。
・メディアでよく見るから
人はよく見る対象を友好的だと認識する。
TVでよく見る人は国籍を問わず興味を持たれる。
・自分の代わりに戦っているから
自分の遺伝子と近しい集団の構成員が勝利すれば優越感を錯覚する。
その快感は人を魅了してやまない。— やくしじ (@approx44) October 13, 2018
スポーツの国別対抗戦は盛り上がる。
オリンピックやサッカーワールドカップのように国を代表した選手が集まる大会はもちろん、テニスやゴルフなどの個人種目まで母国選手を応援する文化が根づく。
選手たちが勝利すれば街では夜中まで祝福の宴が続く。負けたら「よくがんばった」とねぎらう声が過半数だが、落胆して不満をこぼす人もいる。
ほとんどの人は母国選手を当然のように応援している。人はそもそも自分に近しい対象を応援する動機を持つ。
国際的な試合だけではなく国内の地域別で争う場合でも、自分に縁がある地域を応援するのが一般的だ。
自分の出生地に本拠地を置くチームは応援しやすい。(真偽はわからないが)福岡県ではソフトバンクホークスのファンが多いとのデータを発見した。
地元の選手や自国の選手を応援するのは、連帯意識が高まり楽しい気分になれる。
楽しいだけならスポーツの応援は最高だ。
しかし敗北でショックを受けるのは不健全な動機で応援しているように思える。少し寂しい気分になるくらいならいい。ただし怒るのは問題がある。
なぜ負けたら怒るのだろう?
自分が傷つけられたからだ。
勝利は安易な快楽を与える
勝利は優越感を生む。
優越感は刺激的な快楽だ。一方で、敗北は劣等感を生む。
劣等感は心を傷つけ、活力を奪う。また、勝利への執着は、渇望を抱えて離さない。
渇望は敗北への不安をあおり立てる。
勝利は麻薬のような依存を生む。勝利を得ることだけを目標にすると、2つの大きなリスクを負う。
— やくしじ (@approx44) October 14, 2018
スポーツは専門的でわかりにくいことをしている。マニアックといっても良い。マニアックな世界に生きる競技者は専門的な技術を熱心に磨き上げる。
一般人には理解が難しい技術もある。だから勝ち負けというシンプルな観点にひかれる。
勝利に結びつくと判断したプレーを評価すればいいだけだ。一番わかり易いのは「得点」だ。
この観点が間違っているわけではない。選手も勝利のために技術を磨いている。しかし問題は選手が勝敗の行方を100%左右すること。
勝利のために膨大な時間をかけて練習をしている選手たちは、試合中も常に集中し自分で勝利をつかもうとしている。選手は得点に執着して当然だ。
しかし一般的な観客にはそのプロセスはない。他力本願な勝利を報酬として定め、口を開けて餌を待つコイのように得点が入るのを待っている。
ハラハラ・ドキドキのあとの勝ち負けに自分の快楽を委ねてしまう観客は、負けると不快なので腹が立つのだ。
楽して「自分はすごい」と思いたい
応援している選手だって他人だ。
どうして他人の勝敗に一喜一憂してしまうのか?その理由は4つ。
- 感情移入
- 同一化
- 親近感
- 社会的選択の肯定
感情移入
応援する選手の思いを感じ取り自分の感情が動かされる。表情や状況から気持ちを察し、それが自分の主観のように感じてくる。
チームへの関心が低くても、人によっては同調してしまう。
同一化
あこがれの選手が自分の理想になり、選手に依存し自分を重ねる。
親近感
自分に近しいチーム(や選手)を肯定しようとする。関わりが深いものを近く感じてしまう。
重要視するのは精神的な近さなので物理的な距離と一致しない場合もある。精神的な親近感をヨーロッパの国に感じていれば、東アジアの国を敵に回す。
社会的選択の肯定
その集団に親近感を感じていなくても、現時点で所属する集団が活躍したら喜びを感じる。例えば努めているけれど不満がある会社など。
これらは4つの理由に共通するのは、勝利によって自分の優越感を得たいと思う動機が考えられることだ。
応援しているチームが勝てば、自分が誇らしい気分になる。しかも自らの努力は必要ないので非常にお手軽だ。
反対に敗北は劣等感を思い起こさせる。劣等感にあらがう気持ちを不快に感じてしまう。
応援は代理戦争に発展する
スポーツ観戦者の一部は、特定の相手に過剰な敵対心を持つ。
競技と関係のない事情が生んだ偏見を試合に持ち込む。試合後、敵対心は時おり倫理で中和される。
しかし、形骸的な倫理を持ち出しても偏見は消えない。偏見の無意味性を見出し、倫理を実体化する。
そのためには、省察が必要なのだ。— やくしじ (@approx44) October 16, 2018
劣等感よりも優越感のほうが気持ちいいので、応援する側は勝ちを求める。その思いが高じると応援は勝利という刺激を争う代理戦争に発展する。
「伝統の一戦」はスポーツによくあるキャッチコピーだ。特別な試合は選手たちの意欲が高まり、いつもより白熱するだろう。注目も集まりやすい。
しかし勝ち負けを重視する観客にとって「絶対に負けられない戦い」は少し刺激が強すぎる。勝利を熱望するあまり、負けたときのショックが大きくなるのだ。
勝利を渇望すると不安が生じ、相手への攻撃で解消を目論む。それが相手をおとしめる差別発言につながってしまう。
反対に試合に負けてしまったら応援していたチームを責める。チームが負けたことで劣等感を感じたのだ。対戦相手に恨みを持つ人もいるだろう。
勝負をしているのは競技者なのに、あたかも本当に自分が戦っているような錯覚におちいる。
社会は勝ち負けを求めなくなってきた
現代社会は人権を尊重し、世界全体で平和の実現を目指す潮流だ。
人の関わりに国の違いは意味を持たない。グローバル化をする1つの目標は平等な社会だ。
勝ち負けに執着して一方を応援すると、集団を分ける線が明確になる。内側は仲間で外側は敵だというように。
多くの人たちは差別をしない態度を持つ。特に日本には差別は悪いという一般的な倫理観が普及している。
しかし自分の優劣を勝ち負けで測るのなら、とがめられない環境なら差別をしてしまう恐れがある。
「勝利」のために応援するのは止めるべきなのだ。
イライラせずにスポーツ観戦を楽しむ考え方
応援の定義
1 力を貸して助けること。また、その助け。(中略)
2 競技・試合などで、声援や拍手を送って選手やチームを励ますこと。
辞書によると応援の意味はこの2つだ。
まず下の2は応援の行動と結果を示している。選手は好意的な声援や拍手を受け取ると励まされる。もちろん「やじ」は応援ではない。
次に上の1に注目してほしい。
力を貸して助ければ、応援になる。
映画は勝ち負けを問わず無条件に楽しめる。
面白ければ見る。面白くなければ見ない。スポーツも内容を楽しめばレクリエーションとして成立する。
プロのスーパープレーは心を躍らせるのだ。一方の勝利を願うだけが、応援の形ではない。
コンテンツを消費している時点で、応援は成立している。— やくしじ (@approx44) October 18, 2018
応援でもたらす「力」というのは選手によってさまざまな価値観があると思うが、代表的なものを例に上げる。
第一に「お金」だ。特にプロスポーツではチケット代や放映権料につながるテレビ視聴率への寄与など、観戦するだけで興行主には利益がある。その利益は選手に届くだろう。
声援や応援も力になる。好意的な声援は勇気が湧く。たとえ無料で観戦していても観客は自分の時間を提供している。
選手は見られることで価値を感じられる。
- 自信になる
- 人の役にたっていると感じる
- ファンを増やして商売につなげられる
など人それぞれの考え方を持てるだろう。
楽しむという応援
力を貸せば返してもらう必要がある。つまり応援する側にも利益があるはずだ。
利益が勝利では問題がある。勝てば得したと思えるだろう。しかし負けた場合は貸したものも返さないのか!と怒ってしまう。
勝ちの裏には必ず負けがある。チームを全て合算すると50%の確率しかない。刺激的な勝利はリターン(快楽)も多いがリスク(不快)も多い。
ではどんなふう利益を求めればいいのか?その方法は2つある。
- がんばる姿を応援する
- 試合自体を楽しむ
勝利以外の要素で利益を得ればいい。買っても負けても試合自体を楽しめば貸した力は返ってくる。
がんばる姿を応援する
がんばる姿を応援して楽しむ。勝ち負けや内容を問わず、がんばっている姿が見られることに幸せを感じる。
試合自体を楽しむ
そもそも試合を楽しむだけなら、どちらか一方を応援しなくても成立する。
応援したいなら便宜的にどちらかのチームを選ぶ。勝ったら気分が良くなり、負けてもそれほど悔しくない。試合が楽しめたなら、勝ち負けの価値は相対的に薄れる。
しかしこれらの考え方には疑問を持つだろう。
がんばる姿を応援するだけで楽しいと思えるのは、応援者の性格や選手との関係に依存する。なかなか万人にできる方法ではない。
試合自体を楽しむのも簡単ではない。何が面白いのかわからなければ、面白いと感じられないだろう。
そのために「興行主」と「観客」それぞれの改善が必要だ。
興行主が面白さの観点を示す
スポーツは基本的に観客の知識に頼っている。野球やサッカーでなどのメジャースポーツですら、一般人は派手なプレーにしか興味を持てない。
人気に勢いがあるスポーツは、テレビの情報番組が見るポイントを教えてくれる。フィギュアスケートの4回転ジャンプに注目をして楽しいと感じられれば観点の明確化は成功だ。
つまり観客にスポーツの楽しみ方を伝えればいい。興味を持たれる工夫とわかりやすく伝える工夫、飽きない工夫など考えることはたくさんある。
楽しみ方を伝えないと、観客は勝ち負けにしか興味を持てない。ギャンブル的な魅力を健全な知的活動に変える。
興行主は自分たちの利益のためにも「観客目線」をより重要視する。革新を続けないと生き残れない。
観客は探究心を持ちスポーツを見る
読解力が無いと、レクリエーションとしてのスポーツは楽しめない。
スポーツは多様な価値を持つ。
一つひとつ、濃度の違う旨味がある。
読解力が無いと勝敗しか楽しめず、すぐに飽きる。知識があれば、スポーツを余すことなく楽しめる。
自分で体験し学べば、小さいな点に価値を見つけ、感動できる。— やくしじ (@approx44) October 20, 2018
勝ち負けの刺激がなくなると観客は減る。そうなるとスポーツは衰退するのかもしれない。
しかしスポーツは勝ち負けを超える素晴らしさをもつ。
歴史や現代の知性が考え尽くした競技性と、選手たちの努力が集積された技術がある。それが今しか見られない展開の面白さを生む。
技術や展開を楽しめれば、得点が少ない試合でも楽しさが継続する。誰でもスポーツを面白く感じるだろう。
そのために観客はスポーツを見る目を持てばいい。その方法は4つ。
- 自分もプレーする
- 知識を学ぶ
- 他のスポーツの経験を生かす
- すべての経験を生かす
自分もプレーする
スポーツの面白さを味わうには、その競技を自分もプレーして試行錯誤すればいい。自己投影でなく健全な動機で、自分を選手に重ねて楽しめる。
健康的な活動にもなり、友人が増えるかもしれない。
知識を学ぶ
実際にプレーできないのなら知識を学ぶ。初心者向けの専門書一冊を読むだけでも見どころがわかって楽しめる。
基礎的な観点が身につき、観戦するたびに気づきが生まれ見る目が養われる。
他のスポーツの経験を生かす
勉強する時間が避けないのなら、自分が詳しい別のスポーツを関連付ける。
スポーツの技術は適切な身体運動により支えられる。これはどんな競技でも通じるのだ。
ボールは芯をとらえると力強く進む。想像以上の身体運動が見られるだけでも楽しい。バスケの駆け引きとテニスの駆け引きの相違点を楽しむ。
すべての経験を生かす
スポーツの経験がまったく無くても大丈夫だ。自分の経験を想像できる柔軟性があれば、なんでも楽しめる。
スポーツもコミュニケーションの一つだ。人と人の駆け引きが試合の面白さを作り上げる。相手の反応が変わればそこは試合が動いた証拠だ。じっくり目を光らせてみる。
日常の動作に注目しても面白い。包丁とスポーツ用具の関連性を考える。カーリングのブラシに思いを馳せて氷の変化を体感する。
つまり科学的な探究心を持てば、
どんなスポーツでも楽しめる。
おさらい
勝敗は報酬と罰が明確なギャンブルだ。パチンコで負けた人を思い出してほしい。機械に負けてつらそうな顔をしている人がいるだろう。
それでも機械が玉を出してくれるのを信じて「当たれ、当たれ」と願い続ける。焦りが心を縛り付けるがパチンコ玉から目を離せなくなる。
スポーツは人々をあおって勝ち負けに執着させる。その方が楽に集客できるのだ。
一方で外部の者に依存せず、知的探究心をもって何事も楽しめる人は、スポーツでもパチンコでもそれらの中に勝ち負け以外の興味を見つけられる。
楽しさのパターンが豊富だと、勝ち負けに翻弄されない。
短絡的な快楽は無料で手に入る時代になった。わざわざテレビを付けてスポーツを見なくても、子どもたちはYouTubeを見続ける。
スポーツは勝ち負けよりも安全な快楽を提供できるはずだ。
そのためにわかりやすい価値の提案をしてほしい、なんて思った。