昔、私は恋人を裏切った……暗闇の海に沈められたような後悔は、二度としたくない。
だから今こそ誠実でいたいと思う。しかし誠実というイメージがうまくつかめない。
「自分に誠実」って「真面目」と意味が違うんだろうか?
プライベート・ビジネス問わず人間関係では、相手は誠実な対応を求めてきます。ただし自分と相手が考える誠実の解釈は必ず違う。
誠実な人とは、どのような姿なんでしょうか?
真心を持って全体的な利益を考えられる人といえるでしょう。その根拠を以下でご紹介します。
目次
誠実って何?真心を持ち他者を持って動けること
誠実のイメージは人によって異なる
心を表す言葉の、どうしようもない性質というのか……誠実という言葉はいまいちわかりにくい概念です。
人によって「誠実な人」の解釈は大きく異なる。そのためある人は誠実と聞いたら、
真面目でウソをつかない人なんだなぁ
と思ったり、またある人は、
パートナーを大事にして浮気をしない人なんだなぁ
という人を想像します。しかし上の2つは矛盾していることがわかるでしょうか。
例えば
- 仕事が真面目な人でも、パートナーを大事にするかわからない
- ウソをつかない人でも、浮気をするかもしれない
反対に
- パートナーを大事にする人でも、会社でサボりまくっているのかもしれない
- 浮気はしない人でも、会社の金庫からお金を盗んでパチンコに行っているのかもしれない
上の例はほんの一部です。もっともっとたくさんの「誠実」というイメージが、私たちそれぞれの頭の中に描かれているはず。
誠実は真心がなければ成り立たない
ではこのわかりにくい誠実という概念を知るために、まずは辞書を参考にしてみましょう。
- デジタル大辞泉
私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま。
- 大辞林 第三版
偽りがなく、まじめなこと。真心が感じられるさま。 ⇔ 不誠実
以上2つ出典元:誠実(セイジツ)とは - コトバンク
- 旺文社国語辞典第十版
ことばや行動に真心がこもっていること。また、そのさま
このように各書においてニュアンスの違いが見事に現れています。
それぞれの意味を比べると「一方で〜でも、他方では〜かもしれない」と矛盾した関係にも考えられる。
意味をわかりやすくするために、各辞書から一つずつ要素を抜き出して誠実の意味を捉え直しましょう。
- 私利私欲をまじえない
- 真心を持ち、人やものごとに対して、ことばや行動を表す
- 真心が相手に伝わる
- 偽りがない(ウソをつかない・欺かない)
- 真面目
という要素が明らかになりました。一覧を見てみると、確かに「誠実だなぁ」と思える内容です。
とりわけ全てに重複していた「真心」という言葉が目立つ。真心も曖昧な言葉ですね。
しかし真心は誠実よりはシンプルでわかりやすい。いくつかの辞書を参考にすると、
- 真心とは
偽りや飾りのない真実の心。他人につくそうという気持ち
というように要約できる。
真心の意味を踏まえて、もういちど誠実について考えてみます。先ほどのリストの項目を統合して一つの文章にしてみましょう。
- 誠実とは
私利私欲を持たず、真面目に他人へつくそうという、偽りや飾りのない真実の心
と考えられます。
誠実は主観的な感覚
一方に尽くしたら他方を傷つける
ここで問題なのは、他人へ尽くすという行動には個人差が生まれるということです。
誠実ということを深く考えると「誰が助かれば誠実なのか」という疑問にぶつかる。
例えば事業をしている父親が、
- 取引先の都合を優先したら、忙しすぎて子供の運動会には参加できない
- 子供に愛を注ぐことを最優先にしたら、必要な商品の供給が間に合わなくて取引先が困る
という状況では、一方が報われる代わりに他方を傷つけているということになる。自分の行動を役に立てたいと思っても、全ての人を相手にはできない。
誰かのためにがんばっているのなら誠実な行動と考えられる。しかしとばっちりを受けた相手からしたら、不誠実だと感じてしまう。
つまり誠実とは主観的な感覚なので、行為者(父親)が誠実だと思っても、非行為者(取引先・子供)が何を感じるかは決められないのです。
たとえば父親が取引先の融通を聞いて子供の運動会に行けないのなら、
- 事業家は仕事に対して誠実だと思えるが、子供に対して不誠実だと感じる
- 取引先は事業家を誠実な人だと評価できる
- 子供はお父さんは愛してくれないから誠実じゃないと感じる
- 様子を知っている同級生の保護者は、その父親のことを仕事ばかりで家庭を顧みない不誠実な人間だと思う
かもしれません。一つの事象を切り取っても、誠実の解釈は人によって大きく異なる。
利益がなくても誠実だと感じられる
一方で考え方次第では、明確な利益がなくても誠実だと感じられます。
仕事を一生懸命している父親に対して、子どもは、
運動会に来てくれなくても、お父さんはがんばっているから誠実だ
と思えるかもしれない。
同級生の保護者はその人なりに事情を察して、
家庭のために一生懸命仕事をしているからその父親は誠実だ
と思う可能性だってあります。
あくまで主観的な感覚である誠実は、人によって捉え方がまったく異なる。
つまり自分なりの誠実観に照らし合わせて相手の行動を評価しています。
もし自分の誠実観が何なのか理解できれば、相手の行動に感情を揺さぶられずにすむ。不必要に怒ったり悲しんだりして苦しむことはないでしょう。
そう捉えると誠実とは非常に考察しがいのある概念だなぁと思えます。
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真心をなくすと、誰かが苦しむ
主観的な考えである誠実は、捉え方によって、どのようにでも定義できます。例えば、
毎日飢えて苦しむ子供たちのためにスーパーで窃盗を繰り返す母親
に対して、子どもたちは誠実さを感じるかもしれません。
しかしとばっちりを受けた側(この場合はスーパーの店主)は当然のように母親へ不誠実さを感じる。
一方が報われて、一方が苦しむという構図が明確なほど、誠実な行動とは言えないでしょう。
本当の誠実とは何でしょうか?
やはりキーワードは「真心」になると思います。
他人に尽くそうという気持ちを持つことは誠実の絶対条件なのでしょう。
しかし誰かが報われた一方で、誰かが苦しむ可能性がある。
このような誠実に含まれる矛盾に対して2つの解決策が検討できます。
- ルールを守る
- 人の役に立つという原則を守る
ルールを守るだけでは不十分
何が誠実なのか、自分のなかでルールを作って守ってしまえば良いという考え方です。
誠実は主観的な概念なので、他者に影響されずに、自分自身でコントロールしたい。
自分で「これが誠実だ」と決めた信念を守り、例外を認めなければ、ある一定の誠実さは担保できます。
このようなルールの1つとしてウソをつかないという方法がある。
例えば哲学者のイマヌエル・カントは誠実について以下のように考えたそうです。
われわれの友人を人殺しが追いかけてきて、友人が家のなかに逃げ込まなかったかとわれわれに尋ねた場合、この人殺しにウソをつくことは罪であろう
つまり大事な人を救うためと考えられるような状況においても、ウソをつくことは誠実な行動ではないという主張です。
重ねてカントは人殺しに本当のこと(友人が家にいること)を言っても、それで友人が死ぬような因果関係はないという主張もしている。
たとえ真実を言っても通せんぼが成功したら友人を守れますし(自分が死ぬかもしれませんが)、友人は既に窓から逃げ出しているかもしれない。
また「居ない」と人殺しへウソをついたとしても、「正義のためだ」と言って納得することは止め、誠実な行動ではなかったと自認すればいい。
つまりウソをつかないというルールにのっとれば、1つの誠実さは確立されるわけです。
ルールはウソだけではありません。他のことでも自分の信念に基づいた行動を取るようにすれば、誠実な判断というのは簡単にできます。
例えば仕事をとるか・家庭をとるかという2択の場合なら、自分は「仕事で人の役に立つ」と決めてしまえば仕事を優先するルールができる。
そのかわりに家庭からは不満が噴出するかもしれませんが、ルール外のことはあきらめるしかない。それでは家族を傷つけることになるでしょう。
ルールにのっとるのは簡単です。
しかし傷つく人が出てくるので、万全と考えられる方法ではありません。
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人の役に立つことを最大化させる
一方で前述の人殺しに対してウソをついたとしても、誠実な行動と考えられる。
人殺しという明確な悪に対抗する手段として、ウソという方法で友人を守ったわけです。
明確な悪である人殺しの役に立ってしまうと社会的に損失が生まれる。
なのでウソをついて友人を救うだけで、友人のためだけではなく社会全体の利益にかなう。
つまり何が一番社会の役に立つのか考えて行動すれば、多くの人が誠実な行動だと思えるでしょう。
この考え方は柔軟なので多方面に応用しやすい反面、誰かを傷つけるセンシティブな二択の判断基準が持てません。
なので二択を選択するときは常に熟慮し葛藤に苦しまなければならない。その点ルールを決めるより大変な方法です。
しかし人の役に立つという原則を持てば、誰かを傷つけないように最大限に配慮することが可能になる。
例えば前述の仕事と子供の運動会の2択で考えてみます。
- 仕事に行かなければ取引先が困る
- 運動会に行かなければ子どもが悲しむ
この被害を最小限に抑えてみましょう。
仕事に行って運動会にはいけないなら、
空いている時間を使って子供と一緒に運動会のビデオを鑑賞すると、子供は満足できる
一方で運動会に行く代わりに、
仕事を前もって仲の良い同業者に手回しをしておけば、取引先は商品が購入できるので誰も困らない
ということもできます。
つまり人の役に立つという原則を守ろうとすれば、負担が多いので労力を使いますが、社会全体の役に立つ考え方ができる。
僕はこの人の役に立つという原則を守っている人が、特に誠実だなぁと感じています。
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幸せな人は誠実でありやすい
自分を幸せにできる人が誠実
常に人の役に立とうと考えられれば、その人は誠実と呼べるわけです。しかしなかなか難しいですよね。
そんなスーパースターのような誠実人間にはどうしたらなれるのでしょうか?
ずっと誠実でいられる人は既に幸せだという可能性が高い。そう言ってもいまいちピンとこないかもしれませんが。
幸せというのは快感情です。
心が気持ちよい状態にあるので、幸せを感じられる。
幸せは自主的に快感が得られるという自信に満ちあふれた状態だといえます。
強い快感を得られる代わりに渇望して苦しい状態をもたらす、酒のような快感資源には依存しない。
自分自身を精神的に満たせる自信があるんです。
満たされるとわかっている人は、周りの人に対して自分の幸せを分け与えることなど余裕でできる。
例えば仕事を取るか・家族を取るかと迫られたときも、どちらの役にも立てるように最適な答えを出そうと一生懸命になれるわけでしょう。
稀にどんなに苦しい状況でも、真心を持てる人がいます。
その人たちは自分の苦しみを上回る程、真心に幸せを感じられる、もしくは強靭な忍耐力を資質として持っていると思われる。
どちらにしろ一部の人たちにしか到達できないレベルの、成熟した精神を持っているのです。その困難は尋常ではない苦難を乗り越えてこそ手に入る。
そんな人を目指そうなどと、すべての人には言えません。
普通の人が精神的な幸せを持続させるためにはどうしたらいいのでしょうか?
それには以下の2つの状態を保つことです。
- 自分の価値を周りの人と比べない
- 自発的な快感を能動的に得ている
自分の価値を周りの人と比べない
嫉妬を感じると、自分の内側からどんどん幸せがこぼれ出てしまう気がしませんか?
人はだれでも自分の価値について神経質になってしまいます。
多くの人は自分の価値を気にする割には、自前で価値を図る手段をもっていません。
そのため分かりやすい他者との比較で、自己価値を計ろうとするんです。
他者と比べ続けて「自分には価値がない」と感じ続ければ、やがて自分の存在を認められなくなる。
そうして自分自身も自分がいる社会のどちらも嫌いになってしまう。
しかし周りの人と比べて自分が劣っていると感じても、その感覚は素直に受け入れたくないでしょう。
自分は劣ると受け入れたくないから、その気持ちに言い訳をするため、他者と自分の間に不公平を感じるんです。
その不公平さが嫉妬の原因となる。以下が嫉妬を感じる流れです。
- 自分と他者の人格を比べても優劣の差がない(または自分のほうが優れている)と感じる
- 「相手が持つ能力や環境が良いから、他者は優れて見えるだけ」と不公平を感じる
- 不公平が許せないから嫉妬を感じ、相手を批判してしまう
周りの人と自分を比較して自分の価値を計ろうとしている以上、社会の役に立つ行動を自主的にしたいとは思えないんです。
嫉妬の誘惑に負ける人が、真心など持てるはずがありません。
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「誰にも干渉されたくない……」そう思わせるほど劣等感は心をえぐり苦しめます。 でも独りぼっちになるのも怖い。だからつながりを求める……浅く……広く。 心が押しつぶされそうな劣等感を克服する方法はないの ...
自発的な快感を能動的に得ている
一方で周りとの比較にそれほど注目せず、自分の価値を自分で高めようとできる人には誠実な心が備わりやすい。
すなわち自己成長の努力ができる人は、嫉妬やねたみといった感覚を最小限に抑えられるんです。
人間が自己価値を感じようとする理由は、自分の生き方を肯定的にとらえたいためでしょう。
つまり人生が正しい方向に進んでいるのか知りたいと思うからです。
普段の私たちは正しい行動を選択するために、2つの基準を持っている。
- ポジティブな感情(快感情)を求める
- ネガティブな感情(不快感)を避ける
人(というか生き物は)は気持ちよくなる行動を選択する習性があります。
ただしドラッグなどに代表される気持ちいい引き換えに人生が破滅に向かうワナのような行動もある。
その雑多にある快感の選択肢から、将来的に正しいと思われる行動を選ぶのが文化的な人間のあり方です。
少々苦労しても、後から大きな幸せが訪れると信じられれば、今の苦しさは報われますよね。
しかし今の行動が正しいかどうか不安で仕方がない。そのため不安を解消しようとして自分の価値を計るんです。
人と比べて価値を計ろうとしないなら、どうしたら不安を解消できるのでしょうか?
そもそも不安にならないように、日々の努力から快感を得ればいいんです。
正しい行動には苦労がつきものです。その苦労を和らげるために、持続的な快感を得て相殺することをもくろむ。
その持続的な快感にふさわしいのが、自発的な快感です。その自発的な快感は2つある。
- 知的好奇心
- 自己完結目標の達成感
知的好奇心を持って、多種多様な問題を解決しようとする気持ちを持つ。
自分で立てた他者と比較しない目標をクリアーすることに喜びを感じる。
この2つの快感要素をうまく使えると、幸せな精神状態が保てます。
幸せな人は多くの人の役に立つために、誠実な態度を持ち続けられるでしょう。
自発的な快感については以下の記事で詳しく解説しています。
自己成長を促すのは「やる気」。快感コントロールで気持ちを向上
自己成長を志し、早○カ月がたつ。始めの頃に感じる伸びしろは、既に実感がなくなった。 会社の自己啓発研修もいまいちやる気が出ない。社会人の自己成長力には限界があるのだろうか……。 どうしたら自己成長は促 ...
おさらい
ある人から見たら誠実で、ある人から見たら不誠実だという状況は、日常生活で当然のように起こります。
不誠実にならないためには、真心を大事にして行動を選ばなければなりません。
多くの人の役に立つために、一つの行動を考え抜く。社会の利益が最大化する方法を考える努力が求められています。
そんな努力をするためには、自分自身が精神的に安定していないとできない。
まず誠実になろうとするのなら、自分自身が幸せを感じられるように検討してはどうでしょうか?
次の記事では誠実な人とパートナーシップを結ぶための考え方をご紹介します。