社会のいたるところに偏見は存在する。国籍や学歴・地域・趣味・趣向…。偏見は人間の正当な権利と自由な表現を阻害してしまう。
偏見を持っていないと思っている人は、偏見にまみれた人を偏見的に嫌う。
人々の営みと切っては切れない偏見を正確に理解すれば、腹立たしい気持ちはおさまる。
世の中を憂うだけでは何も変わらない。
1つでも多くの偏見を無くすためには行動が必要だ!
目次
偏見の根本的な3つの原因
「偏見とは十分な根拠もなしに他人を悪く考えること」
と、ゴードン・オルポートは定義したらしい。
なぜ、人は根拠もなく他人を悪く考えるのか?
偏見は、心を支配する恐怖によって引き起こされる。
偏見の原因1:恐怖そのものを人は恐れる
誰でも死んでしまうような恐ろしい思いはしたくない。恐怖は強いストレスになる。
危険は恐怖を引き起こす。その危険から逃れるために、戦うか、逃げるか、人は重大な選択を迫られる。
戦っても、逃げても、いつもより素早い判断や動作が必要だ。通常を超える力を無理やり引き出すことで、体にストレスを感じる。
戦うか、逃げるか。判断を迫るサインは「恐怖」である。だから恐怖そのものを感じたくないと思う。
恐怖の痛みを軽減するために、人が習慣的に行っている対処方法が「偏見」だ。
偏見の原因2:わかりきった恐怖を避ける
新しい対象へ自動的に恐れを感じた時、偏見を用いて対処する。
恐れは暴力だけではない。心を傷つけるものにも発生する。過去の恐怖がぶり返しても、自分の認識を改め直すのは大変だ。
一方で相手の個性を認めず、偏見で対処するのは簡単。恐れを消す即効性がある。しかし、相手の心は深く傷つく。
— やくしじ (@approx44) October 6, 2018
スズメバチを見つけた、と想像してみよう。恐怖を感じ、逃げるか戦うか判断をする。スズメバチは人間に対して害をなすと考えられる。刺されたら死ぬかもしれない。
誰かに「あそこの土地はスズメバチが多い。今は行かないほうが良い。」と言われたら、よほどのことがない限り、その土地には近づかないだろう。
戦時中に敵兵とばったり遭遇してしまった。自分には攻撃の命令は出されていない。しかし相手は武器を持っている。戦うか逃げるか……生死を左右する重大な判断だ。
敵兵がいる可能性が高い地域には、単独で近づかず十分な準備をして向かう……。
このように恐怖を感じるものは、前もって「敵」と想定しやすい。スズメバチだって敵兵だって、自分に危害を加える可能性が十分に高い。
この敵の想定こそが「偏見」の根本にある。敵に遭遇したときに前もって自分なりの対処方法を決めておく。それが「偏見」に求められる効果だ。
もし「中には人を襲わないスズメバチもいるだろう」などと考えて不用意に近づくと危険な目に合う。個体差など気にせず、「近づかない」と決めてしまったほうが安全だ。
側頭葉を損傷したサルの実験で、サルが不快情動を失い、(中略)、ヘビなどの敵に対しても警戒心を持たなくなってしまった症例が報告されている。 wikipediaー情動
上記のクリューバーとビューシーの実験が示すように、恐怖というのは身を守るシグナルだ。恐怖を感じないとその個体が生き残る可能性は低い。
身の回りの危険に対処するには、前もって敵を決めてしまったほうが生存の確率が上がる。
危険が多い環境や、現代に潜む絶対的な危険に対しては「偏見」は必要な概念である。
偏見の原因3:心の危険も恐怖する
命がおびやかされるような状況では、危機察知能力(偏見)が重要な役割を果たすのはわかる。しかし現代において、偏見は無くすべき価値観だと考えられているのはなぜか?
例えば上司に散々文句を言われて怒っている「Aさん」がこんな発言をした。
「あの上司、本当に最低のやつだ。あんなに性格が悪いから、40にもなって結婚できないに決まってる。人が嫌がるところばかり言いやがって、あんな奴と結婚してくれる人なんていない。」
怒る気持ちは十分にわかるが、Aさんが上司をおとしめるこの発言には論理性が一欠片もない。
- 自分ひとりの主張では、本当に最低とは証明できない
- 性格を悪いと感じたのは個人の主観だ
- 40歳までに結婚していない理由は性格が悪いからとは決められない
- そもそも上司が結婚したいと思っているかわからない
- 別の人からは性格が良いと思われているかもしれない
- 上司からの指摘事項を改善したらより良くなるかもしれない
- 上司のパーソナリティを受容できる人がいても何らおかしくない…etc
冷静に考えると自分の発言が無根拠だとわかるかもしれない。それでもこのような文句を言ってしまうのは、自分の中に言わなきゃいけない理由を持っているからだ。
Aさんはなにかに恐怖を感じているから偏見を使って対処しようとした。しかし上司が自分を死に至らしめるわけではないだろう。では何に恐怖を感じているのか?
それは「心の痛み」だ。
人に受け入れられない。愛されない。プライドが傷つけられた。自分がダメな人に思える…。
こんな辛さは「悲しみ」や「怒り」を生む。悲しみや辛さなどのネガティブな感情は実際に痛い。脳は、身体的な痛みと同様に心の痛みをとらえている。
心が傷つくような嫌な思いは目に見えないので認識しづらい。その見えない痛みは、無意識下で自分を傷つけていく。それは心の傷「トラウマ」になる。
トラウマは、自己に対して影響する強いこだわり「コンプレックス」を生む。コンプレックスは、多かれ少なかれ誰でももっている個性と言っていい。
上の例の場合、上司の発言がAさんを傷つけたのは、Aさんのコンプレックスが反応して、トラウマが傷んだと考えられる。
はっきりとした理由はAさんの本当の気持ちを知らないとわからないが、あえて想定される気持ちの例を出してみよう。
なぜ、Aさんは文句を言われて怒ったのか。
仕事ができないと感じたら自尊心が傷つく。上司など関係者にできない人と思われると、その会社にいてはいけない人間なのかと思う。
なぜ、Aさんは結婚を例に出して上司をおとしめたのか
Aさんは若いうちに結婚するのが優れているという偏見を持っている。偏見に頼らないと自尊心を保てない。
自分が傷つくと予想されることに対して、偏見を持って対処しようとする。体の痛みも心の痛みも同様に、恐怖を生む。それを偏見で対処するという構図は一緒なのだ。
悪くなくても偏見は向けられる
偏見は、危険がない人には向かない。
出会った人の個性にどんな印象を感じても、攻撃を意図しなければその人は無害である。つまり偏見は、自分勝手に新しい対象を恐れることで発生する。
根本的な心の傷を解消しなければ、恐れは何度も再発する。
自分に向き合わなければ、偏見は止められないのだ。— やくしじ (@approx44) October 7, 2018
偏見の一番の問題は何もしていない人に悪意を持つことだ。危険がない人になぜ悪意を持つのだろうか?
集団は共通の特徴を持つ
スズメバチという総体が人を傷つけるわけではなく、スズメバチ一匹ずつが、人に対して針を向ける。
しかし一匹ずつ「こいつは怖い、こいつは安全だ」などと区別していては時間がかかる。考えているうちにスズメバチに刺されてしまう。
スズメバチを総体としてとらえれば「スズメバチは怖い」と簡単に決められ、巣に近づかないなどの対処ができる。
一匹ずつのスズメバチを総体としてとらえるには「ここからここまでがスズメバチ」という枠で囲む必要がある。その枠が集団だ。
偏見が悪い考え方だと思われているのは、この集団一人ひとりの個性を一方的に決めつける思考手順にある。
「〇〇人だから」といって人種差別をし、「オタクは〇〇をする」からといって個人を深く知らないのに嫌う。「香川出身だから」といってもうどんが好きだとは限らない。
日本では血液型性格判断の文化がある(A型は神経質など)。神経質でないA型が存在する以上、その論理は誤っている。しかしこの考えは人を類型で分ける文化を象徴している。
心を傷つけられることを過剰に恐れる結果、一人ひとりにこだわらず集団でまとめて偏見を向けたほうが簡単に対処できる。
集団は偏見を決めつける枠なのだ。枠は後から簡単に引き出せるものが好まれる。
「種族」「国籍」「学歴」「コミュニティ」「し癖」「性癖」などの属性は明確にしやすい。それ自体に暴力的な意味合いを持たない属性なのに、恐怖を妄想され危険因子に認定される。
偏見は個体差を無視する
人には個性がある。私は昔お酒が大好きだった。
20代の頃、飲み会に行き生ビールをハイペースで飲むと、「さすが、九州男児だなぁ」と言われた。反対に飲めないと「若いのに情けない」と野次られた。そんな事を言う人がときどきいる。
人の個性は一貫していない。酒の強さ弱さ一つにすら複数の見え方がある。
私は人を殴ることはない。しかし殴りたいと思うことはごくごくごくたまにある。
付き合いの長い友人は、人を殴らない私を「温和な人」だと思うだろう。しかし偶然に人を殴りたがっている私を見た誰かは、私のことを「粗暴な人」だとジャッジする。
私は人を殴るつもりはないし、粗暴だと思われるのは心外だ。ぜひとも訂正してほしいと思う。しかしその誰かは私を温和だと簡単には思い直してくれないだろう。
例えば「〇〇人の集団が□□県で連続婦女暴行事件を起こしました」という報道があったとする。
〇〇という国がそれほど認知されていなかったら、〇〇人がどんな人たちなのか先入観がない。つまりこの事件により「〇〇人は女性を襲うんだ」というレッテルが貼られる。
もちろん〇〇人にはさまざまな人たちがいる。大多数の人々は社会に共存している。倫理に基づいた生活をし、人を傷つけず暮らしている。
しかし国籍にレッテルを貼られてしまった後では、その印象が一変する。「私は女性を襲わない」と主張したところで、それを受け入れてくれない人々がいる。
偏見は集団に対して向けられるので、個人ではそれに抗うのは難しい。
偏見は文化を循環する
恐れが強すぎると偏見を向けても解消しきれない。
結果、周囲を巻き込み自分の正当性を主張し、より強い肯定感を得ようとする。主張に共鳴した周りの人も、自分のトラウマをえぐり苦痛を負う。
痛みを解消するために、同じ対象へ偏見を向ける。相手を自分より傷つけないと、強い恐れは治まらない。
— やくしじ (@approx44) October 9, 2018
危険を回避できれば、相手との戦いや逃げは終わるはずだ。スズメバチから離れ、締め切った建物に入れれば安心できる。
しかし心の痛みは目に見えないから、危険が去ったか自分で確かめられない。恐怖は何度も頭をよぎり、苦しみが繰り返される。苦しみから心を癒やすために、周囲の人に安心を求めるのだ。
例)20代の無職男性がアイドルを暴行した。偏執的にアイドルにつきまとい、ストーカー状態になってからの犯行だ。その無職男性はいわゆる「オタク」の特徴を持っている。
それをテレビで見たBさんは憤りを感じた。自分が応援しているアイドルを傷つけたその犯人が許せない。Bさんの憤りはトラウマになりオタクに対しての偏見を作り上げた。
ある日Bさんは2人の友人とC市駅前商店街で買い物をしていた。Bさんは街なかでオタクを見ると無性に腹を立てる。怒りは治まらずオタクはストーカー予備軍だと友人たちに力説した。
友人の一人Dさんは、別れた恋人にしつこく迫られて怖い思いをした経験がある。Dさんの元カレはオタクではなかったが、アニメを見る習慣があった。
DさんはBさんの話と過去の経験からアニメ好きとストーカーに関連性を感じる。その友だちのEさんもBさんとDさんの真剣な様子から、オタクに違和感を持つ。
Bさんは友人の2人が真剣に話を聞き、同調してくれるので、オタクはひどいやつだという主張が認められたような気がして嬉しかった。そして偏見をさらに強固にした…。
実際に見聞きしたことではなくても、自分の中に関連性を見つけてしまえば、他人の話に同調して自分の心が傷つく。
話を聞く側に未だ癒えていないトラウマがあった場合、少しの共通点でも関連付けて自分のトラウマがえぐられる。実質は直接的な関係はなくてもだ。
トラウマが傷んだら癒やしたくなる。痛みが一時的に癒えるだけでも良い。敵を設定するだけでも安心を生む。蔑めば仮初めの自己肯定感を得られる。だから無根拠な情報にもすがってしまう。
トラウマがコンプレックス化すれば、少しの刺激で呼び覚まされた意識が自動的に心を支配する。偏見を人に伝えただけではコンプレックスは消えない。偏見は人に伝わることで増殖する。
快楽と恐怖に人は過剰反応する
過去に生じた恐怖の再発を未然に防ぐために、危険を示すラベルを貼ることが「偏見」だ。
危険因子が所属する集団で分類を行い、ラベルを貼り付ける。ただし集団の構成員全てが危険とは証明できない。さらに、観察学習で得た恐怖でも偏見は生じる。
そのため文化に蓄積された価値観は偏見を生み続ける。— やくしじ (@approx44) October 11, 2018
口伝えよりも圧倒的なスピードで偏見は増殖する。その起因は「マスメディア」だ。
偏見が生み出す心への影響は非常に刺激的かつ単純だ。
- 偏見は恐怖のような「不快感」から生み出される
- 「恐怖」から開放されれば、心地よい「安心感」が得られる
- 人を蔑むことで、「優越感」を感じる
- 偏見を信用すれば、手軽に「快感」が得られる
いったん不快な気持ちになって、その不快感が自動的に解消できると非常に心地よい気持ちになる。この快感に人は依存する。それらをうまく活用しているのはマスメディアだ。
時代劇の仕組みから思い出してみよう。弱い立場の人間(町民)が強い立場の人間(悪代官)により苦しめられる。町民に感情移入する視聴者はイライラし、不快感を晴らしたくなる。
暗躍する正義の味方が悪代官の悪事を暴いていく。最後に正しさを突きつけた後、悪人どもを鮮やかに成敗する。視聴者の不快感は解消され、晴れやかな気持ちになるのだ…。
事件が発生したら、その犯人などの一方に偏見を見いだす。その偏見を間接的な手段(効果音やワイプ画像)で視聴者に悪だと認識付ける。
ときには視聴者代表を演じたタレントが声を出して怒り出す。マスメディアは倫理の仮面を被り、偏見の設定と不快感の開放により刺激的な快楽を提供する。
偏見を生み出さない思考
社会的には偏見はなくすべきだと考えられている。偏見に惑わされないためにはどうすればよいか。
社会を受容を感じている人は偏見を持ちにくい
コンプレックスを解消するには、こだわる必要のないほど欲求が満たされればいい。
人のコンプレックスは、社会との結びつきに不安を感じて生まれる。社会とは家族、学校、会社、地域、国、世界。つまり人との関係次第でコンプレックスはなくなるのだ。
家族全員から確かな愛情を感じていれば、親や兄弟へのコンプレックスは形成されにくい。
学校で揺るぎない自信を持ち活動をしていれば、不良や変わり者を心配こそすれど自分が脅かされるとは思わないだろう。
自分が社会に認められていると感じていれば、意欲を持ってやりたいことにチャレンジできる。人と比較して自分の正当性を確かめる必要はない。
つまり心が満たされていれば安心感に包まれているから、偏見をもちいる必要がない。
知性により偏見を予防する
しかし環境によっては社会の受容を感じにくい。偏見を持ちたくないのなら、恐怖を取っ払ってしまえばいい。その手段は知識を得ることだ。
スズメバチ駆除の達人は、自信を持ってスズメバチに立ち向かう。自信は確かな知識や技術、経験によりもたらされている。怖いかもしれないが相手のことをよくわかっている。
オタクの友人が一人でもいれば、オタクは普通の人と変わらないことが理解できる。外国人の友人がいれば、文化の違いがあっても人を簡単に傷つけない事を知れる。
知識があれば相手を理解できる。理解があれば偏見を生み出さない。
自分が属さないと思っている集団の構成員に偏見は向けられる。未知の集団は何をしているかわからない「不気味」な存在だ。
集団に関心が向いていない以上、その集団に対する態度は決まっていない。
マスメディアなどの報道により、はじめてその集団の情報に触れたとき、印象の良し悪しで偏見を持つか持たないか決める。F国民が慈善活動を〜なら安心し、G国民が暴行を〜なら偏見を持つ。
そもそもF国やG国に確かな知識を持っていれば、その情報1つで踊らされない。知識人は偏見を持ちにくい。
深く考える習慣が一番大事
Wikipediaによると世界の国は206カ国あるらしい。国籍で偏見を持たないためにそれだけの情報を知る必要があるのなら、ほとんどの人にとっては無理難題だ。
しかしそんな事をしなくても偏見を持たない考え方はできる。それはいったん態度を保留することだ。
偏見は短絡的な決定によりもたらされる。危険を目の前にして複雑なことを考えたら、その間に攻撃されてしまう。表面的な情報によって敵性を判断しているのだ。
現代の日本においては身の危険を感じることは少なくなった。ほとんどの物事をゆっくり考えるだけの時間がある。
身の危険を感じてないのにも係わらず、表面的な情報だけで判断し態度をすばやく決めてしまうから、無根拠な偏見が発生する。
仕事などで課題にぶつかったら「よく考えて」とアドバイスをされる。社会は考える事に価値を感じている。それなのになぜ深く考えないのか。
その理由は考えないほうが「楽」だから。
人は深く考えるだけでエネルギーを使う。脳は体重の約2パーセントの重さであるが、エネルギー消費量は全身の20パーセントにもなる大食いの器官
だ。
走り続けることと同様に、考え続けることは体力を消耗する。走り続けられる人が日常的にジョギングをしているように、考え続けるためにはトレーニングが必要だ。
意見を聞くと感情が動く。感情に惑わされず自分の態度を保留する。ひとまず意見の反証を考え、その後できるだけさまざまな角度から情報を検証していく。その繰り返しがトレーニングになる。
多様な考え方をするためには「A国民は暴力的だ」という情報をうのみにせず、情報の表面をめくって深く考えていく必要がある。
恐怖を感じるから偏見は発生するのだ。前述のように恐怖を感じるだけで人は疲れるのだ。そんな疲れた状態でも必死で考えていく。そうすることで偏見に負けない体力がつく。
一つのことを深めて考えるのは大変だ。特に自分の不得意な分野では情報の理解が難しく疲れやすい。
しかし慣れ親しんだことに関しては誰でも深い思考ができる。最初に思考のルートを作ってしまえば、ある程度の深さまでは簡単にたどり着ける。
いつもは短絡的な結論で満足する人でも、自分の得意分野に関しては、他の人が想像できないほどの多様な考えを持つ。
この事実は誰でも考えることに関心を持ちトレーニングを積めば、偏見は軽減できる事を証明している。
おさらい
偏見を受けている人はつらい思いをしている。一方的に嫌な気分にさせる人を恨むこともあるだろう。
しかし偏見を持つような短絡的な思考に縛られている人も不幸せではないか。
自分自身が幸せに満たされていれば、自分を脅かす物事はほとんどないことに気づく。
一方で迫りくる命の危険には適切な対処をしなければならない。
偏見は社会に根づいている。根本的に取り除くことは不可能に近い。
それでも無意味な偏見はなくなればいい。そう思っています。